飯田線開通の道程 ~伊原五郎兵衛の存在~・JR飯田駅舎内の観光案内所「鉄道交流サロン結いの駅」

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飯田線のご紹介

飯田線開通の道程 ~伊原五郎兵衛の存在~  

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車社会となった今でも、市民や観光客の第二の玄関口として利用されている飯田駅
毎日休むことなく列車が訪れ、人々の足となって絶えず利用されています。

この飯田駅は長野県を走る飯田線の南方に位置します。
さてこの飯田線、実はある男の熱い情熱のおかげで今の姿があるのです。

その男の名前は伊原五郎兵衛
飯田の『西郷隆盛』と呼ばれた彼は生涯を着物姿で過ごし、豪放かつ頑固者、そしてなにより熱い心の持ち主だったのです。

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飯田町通町(現在の飯田市)明治13年10月8日生まれ。
漆器業を営む伊原家の三男恒次として生まれました。幼少時代より、父・五郎兵衛が飯田線の誘致や資金集めに奔走している後ろ姿を見て育った恒次は、東京帝国大学仏法科を卒業の後、故郷飯田に帰郷し戦死した兄のかわりに家業を継ぎました。

そして父・五郎兵衛が亡くなると恒次は父の名を襲名し、二代目 伊原五郎兵衛として父の"飯田線を開通させる"という、志をも受け継いだのです。
しかし熱い志とは裏腹に資金集めや、住民の賛同を得ることなど問題は山積みでした。
彼は先祖伝来の財産を多く会社に提供し、町役場に出掛けては一人一人への説得を惜しむことなく行っていったのでした。

幾多の問題や課題にも果敢に挑んで行き、常に人と向き合うことを恐れず、地域の活性化や、社会貢献を進めて行く五郎兵衛には敵も味方も多かったことでしょう。
飯田の西郷隆盛と言われる所以はそのあたりにもあるのかもしれません。

飯田線開通までには長い年月が掛かりました。
伊那電車軌道株式会社(後に伊那電気鉄道に改名)を設立し、用地買収や軌道工事を行いました。
そして明治42年12月28日 辰野西町~伊那松島間が開通しました。

飯田線の始まりです。
その後、徐々に線路は繋げられていき、明治45年には伊那松島~伊那町間が開通、大正2年には伊那町~宮田間が開通、翌年大正3年には宮田~赤穂までが開通し、大正12年8月3日には念願であった辰野~飯田までが開通したのでした。


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所要時間3時間40分、当時長野県下では最長の私鉄鉄道としてその姿を現したのです。

その後彼は、私鉄4社の協力を得て夢でもあった伊那谷から太平洋までを結ぶ路線の全通にもこぎつけたのでした。
晩年は天竜峡へ移り住み、昭和27年4月3日、伊原五郎兵衛は72歳の生涯を閉じたのです。

東和町ロータリーにある記念碑には『昭和二年十二月、辰野、天竜峡間八十粁にわたる電気鉄道を完成せり。更に三信鉄道敷設の難工事に尽力し、かくて表裏日本短絡連絡を見るに至りたるすべてこれ氏の卓越せる識見と手腕とによるものにして郷党等しく感激するところなり』と記され、彼の功績が讃えられています。

現在の辰野~飯田間は所要時間2時間20分ほどです。
自動車に比べれば時間は倍にかかる飯田線ですが、ゆっくりと感じる時間、
線路に刻む列車のリズム、大きな窓に流れる田園風景‥
どれをとっても飯田線ならではの風情を感じられることでしょう。

明治42年に開通したあの日から変わらず、ひとりの男の熱い志は受け継がれ、今でも飯田線の上を走り続けているのです。

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